【対談】元ポニーキャニオン・ディレクターが明かす、DFE代表向井の素顔。~アーティストから経営者に転身するけど大丈夫?

【対談】元ポニーキャニオン・ディレクターが明かす、DFE代表向井の素顔。~アーティストから経営者に転身するけど大丈夫?

かつて音楽業界で夢を追いかけた青年は、時を経て、全く異なるビジネスの世界で会社を率いるリーダーとなった。

誰のお話かと言いますと、株式会社データ・ファー・イースト社(以下、DFE)の代表取締役、向井隆昭のこと。
彼が率いたバンド「SPLAY」は、2006年4月にポニーキャニオンからメジャーデビューしました。

今回は、そのデビューを手がけた当時の担当ディレクターである山内毅氏をお招きし、アーティスト・向井隆昭の当時と今、そして経営者としての未来について、縦横無尽に語っていただきました。

DFE向井の顔が決め顔でご迷惑をおかけいたします。

【登場人物】

  • 山内 毅(やまうち たけし、画像左)氏: 元ポニーキャニオンのディレクター。1983年に入社後、営業、宣伝、制作を歴任。チェッカーズやTHE ALFEEのブレイクを現場で経験し、チャゲ&アスカ、中島みゆき、GO-BANG’Sなど数々のアーティストを担当。向井がボーカルを務めたバンド「SPLAY」を手がけた。
  • 向井 隆昭(むかい たかあき、画像右): DFE代表取締役。バンド「SPLAY」のボーカルとして2006年にメジャーデビュー。現在はバックオフィス業務を支援するBPO事業を展開するDFEの代表を務める。

第一章:黄金の80年代、レコード会社のリアル

向井:今日は、ヘンテコなお願いにも関わらず快く受けてくださってありがとうございます。この7月から社長になったんですが、社長業て、思っていたよりずっと現場仕事が多くて…。昔のイメージだと「社長はゴルフでもしてればいい」なんて時代も有ったように記憶してるんですが、優秀じゃないとそうはなれないんだろうなと。とにかく経営者として才能のある方が羨ましいですよほんと。

山内:あはは。でも、昔は本当にそうだったんだよ。僕が1983年に入社した頃のレコード会社、特に地方の支店長なんて、得意先のレコード店の組合長と毎週ゴルフをやるのが仕事みたいなものだったからね。昭和の、特に80年代ぐらいまではそんな感じでも良かった、羨ましい時代でした。

向井:今日は、ポニーキャニオン時代にお世話になった僕らのバンド「SPLAY(すぷれい)」の育ての親でもある山内さんに当時の向井の印象とか、これからのアドバイスなんかをお話しいただいけたらという企画です。どうぞ最後までお付き合い下さい。

山内:はいはい。よろしくお願いします。

チェッカーズ、THE ALFEEとの邂逅。レコード営業の最前線

向井:山内さんは1983年にポニーキャニオンに新卒入社ということだったと思いますが、まさにチェッカーズのデビューの年ですね。

山内:そう。福岡支店のレコード営業にまずは配属されて、チェッカーズの地元・久留米エリアを担当していましたね。デビューシングル「ギザギザハートの子守唄」を、メンバーのお母さんが経営する美容院に届けに行ったこともありますよ。息子さんたちが東京に行ってしまってと、とても心配されていましたね。

向井:当時の営業というのは、具体的にどんなお仕事をされていたんですか?

山内:レコード店を回って新譜の注文を取るのがメインの仕事。

向井:イニシャルってやつですね。

山内:そうそう。あとは返品の交渉だね。お店には返品できる枠が決まっているんだけど、「もっと返品させてくれ」と交渉されたり、「新譜をたくさん注文してほしい」とお願いしたり。まあ、当時は黙っていてもレコードが売れた時代だから、誰でもできる仕事だと思ってたけどね。

向井:卸値はどれくらいだったんですか?

山内:当時はレコードだから、全部「7掛け」。定価の7割で卸すから、レコード店さんの利益は3割という形だね。僕がいた1984年は、THE ALFEEが「星空のディスタンス」で、チェッカーズも「涙のリクエスト」で大ブレイクして、ポニーキャニオンはまさに黄金期を迎えていました。

貸しレコードとの戦いと、宣伝マン時代

山内:ただ、当時はカセットテープの普及でダビングできるようになってきた時代だったんだよな。そうなって来ると「貸しレコード」に売上を奪われていくという問題もあって、そのあたりは意外と業界においても大きなテーマだったと記憶しているね。その後、東京の本社に戻って宣伝部に移って、最初は雑誌担当。当時はFM雑誌がすごく人気で、ラジオ番組をエアチェックするのが流行っていたからね。

向井:FMステーションとかですね。

山内:そうそう。40万部とか売れていたから、すごく影響力のある媒体だった。その後、アーティスト担当になって、売れる前のチャゲ&アスカや中島みゆきさん、GO-BANG’S、それからインディーズ御三家と言われた有頂天なんかも担当しました。


第二章:ディレクターが見た「SPLAY」とボーカリスト・向井隆昭

「どうしたもんかな…」異色のボーカリストとの出会い

向井:そして、びゅーんと時代が進んで僕たちSPLAYと出会うわけですね。

山内:そうだね。SPLAYの所属事務所となった株式会社シンコーミュージック・エンタテインメントの当時副社長だった緒方さんからSPLAYデビューへの話が来て、大阪のライブハウスまで見に行きました。それまでたくさんのバンドを見てきたけど、大体のボーカルは個性的で自信家なタイプが多かった。有頂天のケラみたいに、演劇もやっててマルチな才能を発揮するような人もいたしね。

向井:僕は違いましたか(笑)。

山内:全然違ったね(笑)。インディーズから出てくるバンドって、ライブハウスが満員で、ファンからの熱狂的な支持を背景に「俺たちの音楽が一番だ」っていう強気な連中が多かった。でも、向井はそういうタイプじゃなく、むしろメジャーのレコード会社や東京に出ていくことへの「恐れ」みたいなものが見えたんだよ。だから正直、どうプロモーションしたらいいか、逆に悩んだのを覚えています。

向井:まさにおっしゃる通りです。当時はバンドを辞めようかとさえ思っていたどん底の時期で、いや、常に大丈夫なのか?と何やってるんだ?と迷っていたんですけど。まぁそんな自信のない時にデビューの話が来たので、戸惑いの方が大きかったのを覚えていますね。


第三章:デビューの光と影-葛藤の中で生まれた名曲

プロデュースの裏側とファーストアルバムの苦悩

山内:デビューにあたって、プロデュースを片岡大志さんにお願いしたんだけど、今思うと、あの時点でのSPLAYとの相性は少し難しかったのかもしれない。もちろん、片岡さんは素晴らしいミュージシャンだけどね。そこはメーカーディレクターとしての僕の力不足だった部分です。

向井:いやいや、厳しい方でしたけど、すごく鍛えられましたし、あの時間があったからこそ次があったと思っています。自分たちの音楽に、自分たち以外の方が入って来るっていう環境になかなか馴染めなかった記憶があります。順応できなかったというのが正しいかもですが。でも、ファーストアルバムの時は、本当に曲が書けなくて苦労しました…。

山内:うん、正直、ファーストの段階では、僕らが期待していたレベルにはなかなか到達できなかった。レコード会社っていうのはシビアなもので、最初に出したものが思ったように売れないと、どうしても社内の熱もトーンダウンしてしまうんだよね。

「これしかない」-名曲『Drawing days』誕生秘話

向井:そんな中で、セカンドシングルをインディーズ時代の曲だった「Drawing days」に決めてくれたのが大きな転機でした。

山内:僕はインディーズの音源を聴いた時から、あの曲はすごくいいと思っていた。レコーディングされた音源のクオリティがまず基本だと考えているから、ライブの動員数よりもそっちを重視していたんだ。

向井:でも、一度世に出した曲をまたポニーキャニオンという別会社からシングルにするというのは、企業としても普通は抵抗がありますよね。

山内:もちろん。シンコーミュージック緒方さんも最初は難色を示していたと思う。でも、楽曲のミックスダウンが終わった日の夜中にタクシーで一緒に帰る時、「あれしかないですよ」って僕が強く推したんだ。結果的に、アニメ『家庭教師ヒットマンREBORN!』のオープニングテーマという素晴らしいタイアップも決まって、作品の監督が「まさに自分のことを歌っている曲だ」と共感してくれたと聞いて、本当に嬉しかったね。あの曲が持つ、受け取り手の幅が広い抽象的な世界観が、長く愛される理由なんだと思う。

「遅れてきた青春」セカンドアルバムへ

山内:ファーストアルバムではプロデューサーの要求も厳しく、みんな本当に大変そうだったけど、セカンドアルバムのレコーディングは、見ていて本当に楽しそうだった。

向井:むちゃくちゃ楽しかったです。アイデアがどんどん湧いてきて、自分たちにとってSPLAYというものが何だったのかを取り戻したような気がしましたね。アルバム全体を通して、自分たちが思うがままに作れて、まさに「遅れてきた青春」でした。

山内:メンバーが自発的に制作できたことが、すごく良い結果に繋がっていた。だからこそ、あれがスタートラインだったらな、と感じたよね。

第四章:セカンドキャリアの歩み方-経営者・向井隆昭の才能

向井:バンドとしては成功できませんでしたが、あの時の経験や山内さんからいただいた言葉は、今の仕事の糧になっています。ライブがうまくいかない時に、山内さんにいただいた佐藤多佳子さんの小説「しゃべれどもしゃべれども」の中に「正面を切る」っていう言葉があって。それが今も強烈に残っていて、お客様と話すときとか、登壇してプレゼンする時とか、今もちゃんとしなきゃって思い返している部分ですね。

山内:そう言ってもらえると嬉しいよ。音楽とは全く違う分野で成功するってのは、並大抵のことじゃない。俺が昔担当した「夢工場」っていうバンドのボーカルを思い出すよ。残念ながらヒットには恵まれなかったんだけど、彼は音楽を諦めた後、沖縄へ渡ってスキューバダイビングの会社を立ち上げたんだ。それだけじゃなくて、誰も発見したことのない海底洞窟を見つけたりして、「水中探検家」として有名になった。

向井:すごいですね。

山内:向井が、音楽から離れて「ことわざ検定」のようなものを自分で考え出して始めた時、俺は「あ、やっぱりさすがだな」と思ったよ。周りの人間は「何それ?」とピンときてなかったけどね。そういう何か新しいものを作りたいって言う欲求みたいなものが、向井自身を前に推し進めている原動力なんだなって感じたよ。

ことわざ検定
https://kotowaza-kentei.jp/
DFEが15年前に始めた別事業で、一般財団法人ことわざ能力検定協会という法人を設立するまでになった検定事業。向井の発案から始まり、全国を会場にした検定が行われた。今は一般社団法人ことわざ検定協会に事業を譲渡している。検定の参考書は、SPLAYが所属していたシンコーミュージックエンタテインメントが出版している。

向井:これから経営者として、お客様も社員のみんなにも気持ちの良い会社でありたいと思ってるんですが、もっと会社や自身を成長させなきゃいけない。山内さんから何かアドバイスをいただけますか。

山内:いや、もう社長として立派にやっている人間に、俺から言うことなんて何もないよ。でも、一つだけ言えるのは、向井みたいなタイプの人間が、これからの時代の社長をやるべきなんだよね。俺たちの時代は、威張っているような、いわゆるパワハラみたいなタイプの人間が上に立つこともあった。でも、そんな時代はもう終わったんだよ。これからは、もっと優しくて、周りに気遣いができる人間、現場で長く苦労して、下の人間たちの気持ちをちゃんと汲み取れる人間がトップに立つ時代だ。向井には、その資質がちゃんと備わっている。

向井:ありがとうございます。でも僕、自分ではそんなに強い人間だとは思えないんです。昔から、動きが遅いというか…。

山内:そこだよ。向井の一番の強みは、その独特な「タフさ」なんだ。

向井:タフ、ですか?

山内:そう。向井は、傍から見ていると「いかにも、めげている感じ」がすごく伝わってくるタイプなんだよ(笑)。だけど、めげてるように見えて、最終的には必ず持ちこたえてしまえる。その、しぶとさというか、粘り強さというか。その不思議な感じが、バンドの時から今まで、ずっと一貫してあるんだよな。普通はどこかで心が折れてパワーダウンしてしまうものだけど、そこを乗り越えられる。それがすごいところだよ。

向井:バンド時代に、レコード会社や事務所からガンガンやられて、鍛えられたのかもしれません(笑)。

山内:それもあるだろうな。その逆境に対する強さこそが、向井が社長になれた一番の理由じゃないかな。パワフルに突き進むタイプの起業家とは違う、向井なりのスタイルでやっていくところが、非常にユニークで良いところなんだと思うよ。


終章:まだ終わらない夢。20周年に向けて、そして未来へ

向井:最後に、山内さんが仕事をする上で、これだけは譲れなかったという信条のようなものがあれば教えていただきたいです。

山内:信条なんて大したものじゃないけどな…。以前、長女が結婚する時に手紙をくれてね。その手紙に、こう書いてあったんだ。「お父さんは家で仕事の愚痴を言わなかった」って。

向井:…いいお話ですね。

山内:レコード会社にいると、営業は制作の、制作は宣伝の悪口を言ったり、酒の席で会社の愚痴をこぼしたりすることがよくある。だけど俺は、ヒットを作るのは基本的に制作者の仕事だと思ってたから、結果が出なければ、それは周りのせいじゃなくて、全部自分の力不足なんだと。だから、人のせいにして愚痴を言うことがなかったのかもしれない。

向井:そのお話、胸に刻みます。ついつい誰かのせいにしてしまいがちですけど、社長ともなればそうも言ってられない。愚痴も気を付けないと。そういう昭和の戦う企業戦士みたいな精神がやはり、自分は憧れてしまいますね。勉強になります。…実は、山内さん。来年の4月で、スプレーはデビュー20周年を迎えるんです。

山内:おお、もうそんなになるか!2006年デビューだから、来年で20周年か。早いもんだね。

向井:はい。なので、まだひとりの構想段階ですけど、寄せ集めのベスト盤を出したり、新曲を1曲レコーディングしたり…そしてまた、ライブができたらな、なんて考えてまして。

山内:ライブやってよ。

向井:はい。頑張ります。メンバーに先に話さないとですけど。なかなか交流が持てていないので、どうなるかって感じではありますが。でも本当に今日は奇妙なお願いを受けてくださって本当にありがとうございました。

山内:いやいや。まあ、めげずに頑張ることだな。それを続けていってよ。

音楽というフィールドからビジネスの世界へ。

音楽業界の黄金期から現在まで、数十年にわたる時間が流れても変わらないものがある。

それは、教え子の本質を見抜き、温かい眼差しを送り続ける元ディレクターの姿と、その期待に応えようとする経営者の姿だった。アーティストから経営者へ。

畑は変われど、山内氏が語ったDFE向井の「めげているようで持ちこたえるタフさ」 は、これからも彼の道を照らし続けるのだろう。来年に控えたデビュー20周年 は、その道のりの新たな一歩となるに違いない。ぜひこれからのDFEにもご期待をいただけましたら幸いです。

編集後記

今回、元ポニーキャニオンの山内毅氏にお話を伺い、終始その場の温かい空気に圧倒される時間でした。厳しくも愛情深いその言葉の数々は、まさに「育ての親」そのもの。

特に、娘様からの手紙をきっかけに語られた「仕事の愚痴を言わない」という信条 は、山内氏のプロフェッショナルとしての矜持と人間的な魅力を象徴するエピソードとして、深く心に残っています。

山内さんが見抜いた弊社代表・向井のリーダーとしての資質 を、今後、事業を通じて社会に証明していくことが私たちの使命だと、改めて感じさせられました。

貴重なお話をいただいた山内毅氏に、この場を借りて心より感謝申し上げます。

対談内容のQ&Aまとめ

Q1: 山内毅氏がレコード会社に入社した1980年代はどのような時代でしたか?

A: 1983年に入社した当時は、地方の支店長クラスがレコード店の経営者と毎週ゴルフをするのが仕事の一部というような時代でした 。チェッカーズやTHE ALFEEが立て続けに大ブレイクし、レコード会社にとっては黄金期だったと語られています 。一方で、カセットテープの普及により貸しレコードが売上を奪うという著作権の問題も業界の大きなテーマでした 。

Q2: 当時のレコード会社の営業とは、どのような仕事でしたか?

A: 主な仕事は、担当地区のレコード店を回り、新譜の注文を取ったり、返品枠を超える交渉を行ったりすることでした 。レコードは定価の7掛けで卸し、レコード店の利益は3割という仕組みでした

Q3: 山内氏は、向井氏のバンド「SPLAY」のデビュー当時をどう見ていましたか?

A: 他のバンドのボーカリストに多い自信家タイプとは異なり、メジャーデビューに対して「恐れ」のようなものを持っていると感じていたようです 。そのため、どのようにプロモーションを進めるべきか悩んだと語っています

Q4: スプレーの楽曲「Drawing days」はなぜ重要なのですか?

A: もともとはインディーズ時代の楽曲でしたが、山内氏がクオリティを高く評価しており、セカンドシングルとして強く推した曲です 。結果的にタイアップも決まり、長く愛されるバンドの「名刺代わりになった」とされています

Q5: 山内氏は、向井氏が音楽からビジネスの世界へ転身したことをどう評価していますか?

A: 自身が担当した別のバンドのボーカルが音楽を辞め、水中探検家として成功した例を挙げ、向井氏の転身を高く評価しています 。特に、向井氏が持つ「めげているように見えて、実際には持ちこたえることができるタフさ」が、現在の社長としての成功に繋がっていると分析しています

Q6: 山内氏が考える「現代のリーダー」に必要な資質とは何ですか?

A: かつてのように偉そうな態度を取る人ではなく、「優しさや気遣いができるタイプ」が求められていると述べています 。現場の苦労を理解できる人が上に立つべきであり、向井氏がその資質を持っていると評価しています

Q7: バンド「SPLAY」の今後の活動予定はありますか?

A: 2026年の4月がデビュー20周年にあたるため、ベスト盤や新曲のリリース、ライブ開催といった今後の活動について言及されています

音声解説はこちらから

https://creators.spotify.com/pod/profile/data-far-east-coltd/episodes/ep-e36vs9i